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コラム

戦火にはぜた越日の愛 ― 第二次世界大戦の傷跡 ―


 第二次世界大戦の敗戦後、日本兵は相当数がベトナムに残り、抗仏勢力ベトミンに加わった。抗仏戦争に参加し「新ベトナム人」と呼ばれた彼らは、ジュネーブ協定締結後、1954年から1960年にかけて帰国していったが、その流れに翻弄された愛が、いくつもあった。

第一話 あなたに会いたい

 ハノイに住むLuong Thi Locさん(86歳)。彼女の夫Takazawa Tamiyaさんは1954年の暮れ、30歳になったばかりの妻と、4人の幼子を残し日本に帰国した。一番大きい子は8歳、一番小さい子はまだ生まれたばかりだった。Locさんは、財務省の給食係として雇われた。幹部・組織部の人間いわく彼女は抗戦中、夫の手当てに頼って安閑と生きてきたため、労働改造の必要があるとのことだった。

 「でもその前には、『仕事には行くな、夫が革命にもっと貢献できるよう、時間は夫のために使え』ってみんな言ってたんですけどね」彼女は口を歪ませる。

 軍医であったTakazawaさんがベトナムの地を踏んだのは1941年。ハイフォンに駐屯していた彼は、日本企業で働く、美しい若い女性と親しくなった。彼らは新婦家族の反対をものともせず、結婚した。インドシナの日本軍が武装解除されると、Takazawaさんはベトミンへの参加を誘われた。彼はCao Thanh Phuongというベトナム名を名乗り、抗仏戦争の間、医薬に秀でた日本人である新ベトナム人を集め、薬の調合を行う部門を設立するよう求められた。彼は多くの傷痍軍人の命を救い、Locさんは夫と子供の世話をしながら、善意の看護婦として怪我人の面倒を見て、夫を支えた。

 「あの時彼らにそんな風に言われて、本当に頭にきたけど、我慢するしかなかった。間もなく、自分でお金を出してタイプライターの勉強をして、そして行政部門への異動を申請しました」彼女はこう続ける。

 しかしタイプライターの仕事だけでは、子供を養うに十分でなかった。仕事が終われば、衣服の繕いなどの内職をして、夜遅くにようやく横になれる日も多かった。

 別れの時夫は、「なるべく早く迎えに来る。そして一緒に帰ろう」と約束した。だがそれから、音信は途絶えた。1958年に一度だけ、妻と子供たちに日本の父親からプレゼントが届いた。娘2人のために2体の人形、息子2人のために、電池で動く自動車と列車のおもちゃが入っていた。

 「しばらく遊んで電池がなくなると、電池を買うお金もなかったので、それを売って、コメを買うお金に換えました」Locさんは話す。

 「何度も死のうと思いましたが、父親がいない子供たちが母親まで失うなんてかわいそうで。まるで自分の子供の頃のようで、だから頑張って生きました」Locさんは言う。

 彼女たち姉妹は早くに両親を亡くし、叔父のもとで育った。4人姉妹に両親は、「Nhan(閑)」「Nha(雅)」「Phong(豊)」「Luu(留)」と名付けたが、「どうしてでしょうね。子供の頃はとても大変でした」。結婚して、彼女は「Nhan」から「Loc(禄)」という名に変えたが、それでも幸運はちっとも長続きしなかった。

 何度か再婚する機会があった。ある軍の諜報部門の少佐は、人を介して、結婚を申し出てきた。夫を失いながらも天が授けた魅力があった彼女は、その申し出を受けた。その理由の大きなところは、寄辺のない子供達を守ってくれる、男性の姿が欲しかったからだった。しかし結局、話は成立しなかった。当時の偏見が、そこにあったからだ。

 やれ父なし子、やれファシスト日本の子供だと、彼女の子供達は友だちに悪口を言われ、辛い思いをした。近所の子供達にからかわれ、耐えきれず手を出し、子供達がいわれのない仕置きを受けたことも何度もあった。「いつもあの子たちは、いつかお父さんに出会える日を、夢見ていました」。

「白地に赤く日の丸染めて、ああ美しや日本の旗は」

 日本語教師・小松みゆきさん(*後に詳述)は、Locさん宅を訪ねた際に、かつてTakazawaさんがよく歌っていたという歌を、彼女が口ずさむのを耳にした。

 ハノイLe Phung Hieu通りの財務省官舎のLocさん宅の祭壇には、3つの遺影が飾られている。父親と夫と、子供の写真だ。

 夫Takazawa Tamiyaさんは抗仏戦争中、金星紅旗に仕えた。そして抗米戦争で彼ら夫妻の三男Takazawa ToshiyaことCao Anh Tuanさんは、この旗のもとに1972年、まだ20才にもならないうちに倒れた。彼のいた偵察部隊は地雷を踏み、8人全員が死亡した。彼は、ベトナムと日本の国交が正常化し、父親に会えるかもしれないその日を待たずして、逝った。

 その兄Takazawa YoshiyaことCao Thanh Tuongさんは、その日を夢見てThong Nhat自転車工場で日々額に汗して働いていた。1993年半ばに革命博物館で最初の日本語教室が開かれた際には、彼もすぐに申し込んだ。だがそれから4カ月後、父親の友人という人が訪れ、彼の死を告げたことで、彼は勉強をやめてしまった。「父親が死んで、日本語を勉強して誰と話すって言うんです?」。

 「もう86歳になりました。彼もこの世にいません。もう怒ってなどいませんよ」Locさんは、こう静かに話す。

 だが彼女は長い間、どうして夫Takazawaは、4人の子ども達をここに残したまま、何の連絡もしようとしなかったのか、疑問に思っていた。

 その疑問は2001年秋、Takazawa Mikaさん――Takazawaさんがベトナムに駐屯する前に亡くした最初の日本人の妻との間に生まれた娘――がベトナムを訪れ、Locさんら家族に会いに来たことで、ようやく氷解した。

 Mikaさんはこう言った。「両国の往来は1980年代末には容易になり始めましたが、私たちは、長い間音信普通にしていた父を、みなさんが受け入れてくれないのではないかと恐れていたのです」。

 Locさんによると、彼女は何人もの外交機関の関係者を通じて1992年に彼の消息を知った。そして「あなたに会いたい」というメッセージを伝えていたという。

 しかし残念なことに、そのときTakazawaさんは病に倒れ、その1年後にはこの世を去っていた。

 「父はベトナムの家族の写真を胸に抱いて、逝きました」Mikaさんはこう話してくれた。


 ※小松みゆきさん……日本語教師・ライター。2004年、「新ベトナム人」とベトナム女性の愛、その家族の運命などをテーマにしたルポ「ベトナムの蝶々夫人」を発表。

 (続く)

(Sai Gon Tiep Thi)

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(2009/04/24 09:01更新)

※上記の情報は【ベトナム最新情報】より引用しています。

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