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コラム |
革命と友好関係強化に貢献した「新ベトナム人」
我々の抗仏戦争、抗米戦争には、本質的な正義があった。1945年8月、革命が起きた際に一部の外国の兵士は我々の部隊に入り、ともに闘った。それが「新ベトナム人」、犠牲を恐れず、その身をベトナムの革命に捧げた日本人達である。彼らは、ホーおじさんの部隊と呼ばれていた。
帰国した後も、彼らはベトナムの抗戦を支持する活動に参加し、ベトナムの革命に対する支援への貢献を目的として、架け橋となる日本ベトナム友好協会、日越貿易会を設立した。彼らは積極的に我々の正義の闘いを広め、国家統一の戦いを支持した。
これらの日本人が、ベトナムと日本の友好関係の基礎を築く、その最初の礎となったといえるだろう。
イワイ・コウシロウ氏、ベトナム名Nguyen Van Sauは、部隊ではSau Nhatと呼ばれ、1940年代末〜1950年代初めのCao Bac Lang戦場における、174主力中隊の偵察部隊の大隊長をしていた。
Dang Van Viet中隊長の回想記『4号道路の閃光(Duong So 4 Ruc Lua)』でSau Nhatは、「ベトナムを自分の第2の故郷だと感じている。解放軍での生活で、多くのことに目覚め、革命軍とはいかなるものかということを知った。革命軍は祖国の解放のために闘った」と心情を吐露している。
Sauは国道4号戦場での待ち伏せ攻撃で、多数の戦績を挙げている。ほかにも1950年の東北国境解放戦、1952年のHoang Hoa Tham戦、西北戦などに参加している。
1953年、Sau Nhatは複数の日本人とともに、日の出ずる国へと帰国する。ナカハラ氏、ベトナム名Minh Ngocは、Quang Ngai陸軍校で軍事戦術を教えていた。その後、Viet Bac地域に移り、総指揮部軍隊訓練局に属する初・中等軍事校で教えた。
日本軍の上級士官で、ベトナム名Lam Sonという人は、妻とともに簡素な高床の家に住んでいた。毎日彼は、偵察や諜報、敵の研究などを馬でTran Quoc Tuan陸軍校4科の学生に教えに行っていた。要塞の築き方や爆薬について教えていたPham Lai、銃剣や白兵戦を教えていたBau Tuyenも忘れてはならない。
後日、Sau NhatとMinh Ngocはビジネスマンとなり、日本ベトナム友好協会、日越貿易会を設立した。
1990年の冬、Minh Ngocは日本ベトナム友好協会の副会長として、Sauは日越貿易会の会長として、ベトナムと日本の友好、経済関係の促進を目指し、ベトナムに帰って来た。100社近い日本企業が会員となっていた。
1990年11月29日、ベトナム日本友好協会の技術協力運動委員会は、日本ベトナム友好協会、日越貿易会の設立35周年記念式典を開催した。式典に出席していた二人は、友好の雰囲気、戦友の心に感動した。そして、SauとともにE174中隊にいた僚友たちとの再会が、軍事博物館で実現した。
1990年12月末、日越貿易会はハノイのGiang Vo展示センターで日本の機械・製品に関する展示会を開催した。ここでSau Nhatは、「協力の発展をさらに進め、日越貿易会とベトナム企業との協力関係に新時代を開こう」とスピーチした。
ベトナムを訪れ、「ベトナム製品の品質をいかにして変化させるか」という内容で講義した日本共産党員であり経済学の教授サトウ氏は、ハノイやハイフォン、Nam Dinh省の大手企業に熱烈に歓迎された。
ビジネス活動の促進のため、Sauは東京とハノイを頻繁に往復した。会社社長ハノ・ハルナリ氏が、ベトナム日本友好協会に「友好号」と名付けた、170人乗りの客船を寄贈した出来事もあった。
1997年、Sauは重い病に見舞われ、ベトナムへの様々な素晴らしいアイデアを前に力尽き、75歳でこの世を去った。
1998年、在ベトナムの日本共産党代表や新聞『赤旗』の記者が、ある女性記者をSau Nhatのかつての戦友に引き合わせた。イワイ・コウシロウ氏の戦功やその人となりを、アニメを介して、日本の子供達に伝えるためだった。
(Nhip Cau Dau Tu)
(2008/05/29 04:06更新) |
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