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コラム |
ベトナム:サイゴンの昼はきらきらと(後編)
― 従軍記者が見た南部解放 後編 ―
1975年のサイゴン、新聞の印刷技術は先進的なものだったが、4月30日にサイゴンに入ってからも私たちは、戦区での自分達のやり方で新聞を印刷した。
あちこちを転戦する解放部隊が北部から送られる新聞や解放区で出版される新聞を読むことは少なかったため、政治委員会の長らくの任務は、戦いや訓練が終わった後に、新聞や専門テーマの冊子を部隊のために出すことだった。第7師団の新聞は「戦勝」と呼ばれていた。
■シクロで輝くダイヤモンド
私たちの新聞印刷はきわめて遅れた手作業で、抗仏期となんら変わらないものだった。原紙に文字を打ち、それを版枠に固定し、ハケでインクをのせていくという手作業のシルク印刷で、2色、3色刷りをしたければ最初のインクが乾くのを待ち、2色目、3色目を入れなければならなかった。
サイゴン入りし、私たち新聞隊の最初の仕事は、新聞用紙を探すことだった。数カ月にもおよぶ行軍で、紙はほぼなくなっていた。私は、傀儡政府の印刷所から、紙を調達することを考えた。当時サイゴンでは、「解放軍を助けよう」という運動があり、手助けしたものには、師団からその功績を認める書類が交付されていた。
ある日、Thanhという名のThai Binh出身の看護係が、新聞用紙を取りに行くのを手伝ってくれた。三輪車を呼び道に出ると、サイゴンの陽射しで虹色に輝く氷を運ぶ原動機付きシクロの姿があった。
田舎者で軍隊では森に入り、都会に初めて出てきたThanhは、それが何なのかを知らず、私の肩を引きこう言った。「Khoiさん! ダイヤ! ダイヤがあんなに」。私は笑いを噛み殺し、「黙ってろ、笑われるぞ。あれは氷だ。こおり」
しかしそれから数日後、氷を長く保つために新聞紙で包むという妙案を考えついたのも彼だったのだが。
■ベトコンも犬肉が好きなんだ
私たち政治委員会は、Nguyen Dinh Chieu通りCay Diep路地の家に住むことになった。
行軍の最中、多くの店が「犬肉7品料理」との看板を掲げていることを知っていた私たち犬肉好きの北部人は、後日、誘い合わせて探しにいった。
夜9時、隊での生活が終わると、私とLacはひそかに街に出た。当時は戒厳令が敷かれており、ドアを叩き「解放軍だ」という私たちの声に、店主は顔を青くして戸を開けた。しかし私の「犬肉とお酒はありますかね、お父さん」との問いに、彼らは目を丸くして、そして笑い出すのであった。
なぜ戦時の緊張下にあっても、店に犬肉と酒があったのかはわからない。店主に何を食べるか問われ、私たちは茹でた肉や乾燥肉の料理をいくつか頼んだ。店主は女の子を起こして肉を切り、料理と酒を持ってきた。
いくらなのか分からなかったため、私たちは傀儡政府の500ドン(私たちの1カ月の手当ては一人あたり傀儡政府の2,000ドンで、当時2,000ドンでコメ100kgが買えた)を払おうとしたが、店主は受け取らない。
そこでLacが、戦場にいた7年間の記念のように持っていた北部の「Hoおじさん」の10ドンを抜き、これをと差し出した。当時の10ドンといえば、Orientの三つ窓の時計が買えるほどの価値があった。
店主は震える手でお札を握り、胸に押し抱き、そして慌ててありがとうと言った。私たちが店を後にするとき、お店の女の子のこんな声が響いた。「ベトコンも犬肉が好きなんだね。面白いね、お父さん」。
■「お上りさん」の衝撃
Xuan LocからBien Hoaまでの道には、カラフルな巨大な看板が多数設置してあった。最も大きく、そして最も印象に残っている看板が、Hynosという文字とともに、白く美しく並んだ歯を自慢する、笑顔の黒人が描かれたものだ。看板は数十m2という大きさで、農地のど真ん中にコンクリートの台座で築かれ、数十キロ先からでも見えるほどだった。
Bien Hoaで道案内してくれた女性のゲリラ兵に、これは何なのか尋ねると、彼女は私をまるで月から来た人間かのような目で見て、そして大声で笑った。「Hynosっていう歯磨き粉の宣伝。南部じゃみんなこれよ」。
1975年5月1日から、サイゴンでの商品売買は平常どおりに行われていた。その日の朝、そしてその後幾度となく、私たちはBen Thanh市場やチョロンに逃げ込んだものだが、商人たちの様子に変わりはなかった。衣料品店、布地店、皮革店などが店を開け、サトウキビジュース売り、Sinh To(シェイク)売り、パン売りは大声を張り上げ、客を呼び込んでいた。
当時最もよく売れていたのは、大小の金星紅旗と、赤地に金文字で「独立と自由ほど尊いものはない」と書かれた石板だった。人々は金星紅旗を家の門に掲げ、ホーおじさんの写真を掲げた祭壇を設け、「独立と自由ほど〜」の石板を壁に貼り付けた。
後に知ったことだが、この旗や石板は北部Vinh Phuc省のTho Tang村で作られたもので、彼らは解放軍のすぐ後を追い、綿々と南部に運び込んでいたのだそうだ。
次によく売れていたのが、解放軍の記章や衣服である。サイゴンの商人達は、これらが販売禁制品とは知らなかったようだ。衣服やサンダル、真新しい解放軍の記章など、いったどこから出てきたのかというほど、雑貨店の店頭に並んでいた。人々はおそらく、解放軍の服や帽子を着用し、星をつけていれば、面倒を免れると思ったのだろう。
街の歩道では、解放のそのはじめの日々から、ジッポやステンレス製のナイフやフォーク、トレーなどの食器類、水筒やマグカップ、リュックサック、扇風機、アイロン、剃刀など、米兵の使っていたものが売られていた。
米国の各施設から集められたもので、ある人はこれを使うために買い、またある人は記念のために買い求めていた。真新しい米兵の食器一式は、旧サイゴン紙幣数千ドンで当時買えたが、今となってはいくら出しても、とても手に入らないシロモノだ。
次に多く売れていたのは、北部に帰る兵士たちが求めた、自転車のフレームや日本製のラジオ、時計、プラスチックの人形、セーター、スカーフといった「記念品」だ。
バスターミナルなどで、兵士がはちきれんばかりのリュックを担ぎ、その後ろに自転車のフレームを括りつけ、両目のパチパチとした人形をぶら下げる姿は、お馴染みの光景となった。
ジャケット、セーターなどは当時、Ben Thanh市場やチョロンでは、ひとつ買えば、もうひとつプレゼントしてくれた。1足5ドンの靴下でさえ、もうひとつもらえるものだから、私はBen Thanh市場の店の女性に「儲けがないのでは?」と尋ねた。すると、「これが商売ってもんよ、アンタ」との答えが返ってきた。
解放軍の兵士の多くは、北部各村の中学生や高校生で、農村で育ち、戦場に出たかと思えば山地にいることになったため、サイゴン入りした時は、何もかもが珍しかった。
部隊のLang Son省出身のTay族の料理人Dienは、5月1日朝に市場に出かけ、「Chuc(10をあらわす単位)匹」の魚を買った。しかしそれを持ち帰り、何度数えて見てもやはり12匹いる。
「これでは申し訳ない」「こんな商売では何の儲けもない」ということで、彼は市場に急いで戻り、2匹の魚を返そうとした。しかし魚売りの女性はそんな彼に白い歯を見せ笑い、「解放軍のダンナ。ここで『Chuc』は12のことで、10じゃないの」と言った。
彼は倉庫に帰り、夕食をつくり、2匹の魚は明日にとっておくことにした。その魚を彼は、「そこに水があったから」という理由でトイレに入れた。しかし翌朝になり、お粥をつくろうと取りにいくと、そこに魚の姿はない。
夜中に誰かに酒の肴にされてしまったと思った彼は、上長にこれを報告。しかし現場を訪れてみると、誰もが腹を抱えて大笑いした。魚が消えた一方でトイレは詰まり、近所の職人に詰まりを直すよう頼まなければならなかったのである。
その後数日で、彼が食品を市場に買いに行くことはなくなり、Cau Bong市場の商人達が魚や肉を門のところまで売りに来るようになった。
Cay Diep路地では、夜になると歌のように耳に心地よい売り子の声が聞えた。「餅粉、小麦粉、豆餡、肉餡、ア〜アァ〜」と、最初はいったい何を売っているのか見当もつかなかった。近所の人に聞いてようやく分かったのが、それが肉まん売りだったということだ。
あれから33年。私の子どもも、私がはじめてサイゴンで犬肉を買いに行った時の年齢を過ぎた。だがなぜだろう、これらの想い出が、まるで昨日のことのように思い出されるのは。芳しい軍服の香りを感じるのは。
(Tien Phong)
(2008/05/14 07:37更新) |
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