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コラム |
ベトナムの国会総選挙物語 第二話
― 仏軍占める南部で ―
「選挙に行こう、我らの議員を選ぶのだ」。61年前、メコンデルタのある村で、12人の青年団が、ベトナム初の総選挙広報のため、焼け野原の中、声を張りあげていた。一団を率いていた青年はMuoi Man(Vinh Long省党委員会元書記Ho Minh Man氏)、1946年1月6日、17歳でHau Thanh村(当時のカントー市Tra On県Luc Si Thanh中洲にあった3村のひとつ)救国青年団執行委員となった。
■さあ選挙へ行こう――青年達の活動
まさに暗黒の時代。仏軍はVinh Longを再度占領、Mang Thit川の流れに沿うように、Tam Binh、Tra Onと進み、カントーを占領するとTra On県庁にあった軍の駐屯地を閉鎖した。戦火は弧を描くように広がっていき、銃声が響くと、あちこちで火の手があがる。人々が仏軍に先回りし、行政機関から撤収、自ら焼き払う戦法にでた。西南部はまた一面の焼け野原となった。
Luc Si Thanhのような田舎に暮らす人々は、ほとんどが文字を知らない小作人で、旧暦10月には鎌を担いでに出稼ぎに行き、旧正月(テト)近くになりわずかな金を持ち帰る。血のにじむような思いでようやく得た実りも、日本軍があっという間に略奪した。人々は1945年の8月革命に応え、救国団や公安組織に我先に参加した。彼らが初めて、独立・自由・民主主義というものを耳にした瞬間だった。
同地での選挙活動はMuoi Manを中心とする青年達により熱気を帯びていた。Muoi Manは、若者の士気を鼓舞する歌『血の道を行け』の「血の道を行け、ベトナム国民よ。われらの国が破壊されている」のくだりを「選挙に行こう、南部の人よ。我らの議員を選ぶのだ」と替え、メガホンを口にあてた青年団が、初の選挙の喜びに酔いしれるかのように村の広場で歌っていた光景を今も忘れられないという。
彼らは手足に泥のしみついた農民達に、選挙の意義を広め、この選挙がこれまで何度か経験したことのある、仏占領下での代表者選びと何が異なるのかを説明して回った。
1946年1月6日、総選挙の投票日、南部で最も多かった質問は、「ホー・チ・ミン主席は立候補しているのか?」というものだった。国会の概念を理解しきっていない人々にとって、主席は国家を形容するのに最も近い概念だった。多くの人が真剣に、ホー・チ・ミン主席に投票したいが、どこに名前があるのか? と聞いてきた。選挙管理委員会は、「主席はハノイで立候補しており、ここの候補者ではありません。われわれは地元の代表を選ぶのです」と幾度となく説明せねばならなかった。
Muoi Manは竹を割って作った筆に墨をつけ、「さあ国会総選挙に参加を」としたため、投票所の入り口に貼った。投票所の机は民家からの借り物、そこに選挙管理委員が座り、ペンなど持ったことのない有権者の投票を助けた。
投票所に行きたくても行けない地域もあった。敵に占領されていたTra On県の村では、ひそかに投票箱を家から家へと運ぶ方法で投票した。敵に占領された地域では、投票箱を抱いて走り回った多くの選挙管理委員が犠牲になった。彼らの血で染まった投票用紙は、独立への希望の証である。
■26歳の南部議員と発言の「方法」
ハノイ法律学校卒業後、南部へ戻り総選挙に立候補したHuynh Van Tieng、当時26歳だった彼はこう振り返る。「後の青年大臣、Duong Duc Hien弁護士が、鐘を鳴らし、『若いわれらは、受け継いだ国を守り抜くこと、侵略を試みる軍の罠、弾圧に決して退かないことを先祖の魂に誓う』と読みあげ、それに続いて数千人の学生が最敬礼で『おー!』と声をあげた光景が今も目に焼き付いている」。
サイゴンでは2地域に分け広報活動が行われた。ひとつは、Vuon Thom、Go Xoai、Binh Chanh、Binh Xuyen、Ba Queo、Ba Diem、Thu Duc、An Phu Dong、Nha Beといった革命政権が支配していた郊外で、ここではルールや総選挙の意義、目的についてなど昼夜を問わず、広報活動できた。
もうひとつのサイゴン市内が難しかった。再び占領されたサイゴンには至るところに武器の影があり、仏軍のスパイ網が張り巡らされ、選挙妨害を目的とした候補者の誘拐や暗殺がおきていた。市内ではゲリラが敵を排除、夜には郊外から応援を得たが、活動は郊外のようにはいかなかった。
そこで選挙管理委員会幹部は市内の家庭を個別訪問、選挙の意義や目的を説明し、郊外との境で行う選挙活動に参加するよう説得した。その後、管理委員会は極秘で市内の代表グループを、敵のアジトを突破しAn Phu Dongまで連れて行った。途中には多くの敵が待ち伏せており、行きはなんとか辿り着けたものの、帰りには37人の幹部が犠牲になった。
26歳で、ベトナム民主共和国初の議員となったTiengら南部の議員は、統一ベトナム国国会の象徴として、国会開幕までに必ずハノイに到着している必要があった。
Ton Duc Thangは船で向かった。Tiengらは陸路で出発、馬、象を乗り継ぎ、Khanh Hoaではトラに襲われ、Quang Nam、Thua Thienでは敵に待ち伏せされた。数十日間、一行は塩をかけただけの白飯や野菜だけで過ごし、ハノイに到着したときには全員がマラリアにかかり、第1回会議に参加することはできなかった。
3月15日の第2回会議でTiengは、南部代表として仏軍の違法占領とベトナム国民党とベトナム革命同盟会70人が選挙を経ず指名されたことに意見、26歳の若者は雄弁をふるった。
会議の後、ホー・チ・ミン主席に呼ばれた彼は、勇敢な発表で誉められると思っていた。だが予想外にも「発表はとてもよかった。だが発言にはもっと気をつけねば」と言われた。「全て話し合いで決定したのですが」と言うと、「わかった。だがもっと別の言い方がある」と言う。
どんな方法か聞くと、2mほどの距離に立っていたホー・チ・ミン主席は、ペンを掴みおもむろにTiengの腹をめがけて投げた。「これがひとつ目」と笑い、そして落ちたペンを拾って手渡し、「しっかりつかんで、穏やかに、平和的に渡すことだ」。
(続く)
(Tuoi Tre)
(2007/07/19 06:24更新) |
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