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コラム

ベトナムの夜明け前―ドイモイへ至る道


 1975年の南部解放を経てベトナムは統一された。止むことのなかった銃声は消え、人々の顔には安堵と喜びが戻った。しかしそれも束の間、食糧、物資窮乏の時代を迎えることとなる。

 1986年の第6回共産党大会で採択されたドイモイ政策は、ベトナムの成功した輝かしい政策として語られる。しかし、その影で語られることの少なくなったドイモイ以前、この夜明け前にこそ、今日に語り継ぐべきものがあるのではないか――。


竏酎??1話 配給―
ドイモイ以前に配布されていた配給切符や配給手帳を保存している人は今も多い。今では色褪せてしまった切符だが、それが現役だった頃に時計の針を戻してみよう。


■困窮の暮らし

 1980年、サイゴンで教師をしていたNguyen Van Hangの暮らしには、あらゆる物が欠けていた。3度の食事、真白なノート、長い鉛筆、継ぎ接ぎの無い自転車のタイヤ、何もかもが足りなかった。

一家に待望の赤ちゃんが生まれた年、規定では1カ月分のコメ配給は13kgだったが、実際は3kg程度で、他は小麦やラーメン、芋などが代わりに配給された。コメは妻に食べさせ、Hangは数カ月間コメを口にしないこともあった。
肉を食べる事など夢のまた夢だったが、ある日、同僚がその夢を実現する方法を提案した。校内で豚を飼うのだ。豚には残飯をやる予定だったが、人の食事にも事欠く状態で残飯など出るはずはなく、コメのとぎ汁、魚のはらわた、野菜の芯などを皆で持ち寄った。しかし豚の食欲は底知らずで、貧弱な餌をいくら与えたところで少しも太らず、1学期が過ぎても豚の大きさは飼い始めた時と変わらなかった。しかしそれでも肉であることに違いはなく、その肉が供された宴会の食事はまさにご馳走だった。

 苦しい生活の中でも、教員同士で愛を育み、未来を共に歩もうという者がいた。門出の日には、あちらから白いシャツ、こちらからネクタイ、方々から茶碗、箸、コップ、お皿をかき集めて宴を催した。料理は春巻き、スイカ、ランブータンだけというわびしいもので、Hangは何とかこの門出を祝福しようと校内で咲いていた花の枝を手折り、会場に飾った。夫婦が体を休めるベッドも、足が折れていたものを友人に修繕してもらい贈った。

 ハノイ市の繊維工場で工員として働いていたDinh Thi Vanによると、南部解放から数年後には極度なインフレが始まり、職場では仕事も無くなった。油くさく、カビが生え、石が混じるようなこともあった配給のコメも徐々に減り、トウモロコシや芋を混ぜて飯を炊く日も出てくるようになった。Vanの娘は、学校の作文で「テト(旧正月)にはお茶碗いっぱいの白いご飯と、お皿一杯のお肉が食べたい」と書いたこともある。現代の若者にはとても信じてもらえない願いかもしれないが、これは当時珍しいことではなかった。

 Vanの家庭には月2kgの肉の配給があった。しかし肉といってもそれは脂屑か筋ばかりで、職場から各工員への毎回の配給も規定量の3分の2しかなく、配給の割当てはくじで決めた。外れた人は次回まで待たねばならず、職場の食糧配給係も時折少なめに量り渡していたが、皆それに文句一つ言うことなく受け入れていた。

 食糧の配給日は家族皆が胸を躍らせ、誰もが台所を覗き込み、匂いで少しでも腹を満たそうと、鍋から立ち上る湯気を胸一杯に吸い込んだ。配給日の工員寮の夜は、方々から弾んだ声が聞こえ、まるでお祭りのようだった。

石鹸や調味料、布、燃料などの必需品は全て配給だったが、全てが均等に配給されていたわけではなく、布ばかりの配給が続くことや、石鹸の配給がまったく無いこともあった。ある家庭は夫を亡くし女性ばかりだったが、配給は男物の短パンや髭剃りばかりということもあった。また会社では次第に社員に給料が支払えなくなり、ゴム生産企業はゴム、帽子生産企業は帽子で現物支給するようになった。


■ 計画生産という足枷

 ドイモイ以前の配給が行われていた時代、すなわちバオカップ制度(国庫補助金制度)が敷かれていた頃は、生産や物資供給は全て、需要の有無にかかわらず紙に記された計画通りに行われていた。

1979年、Thai Nguyen省の石炭開拓会社は15万トンの生産を指示された。しかしその年、石炭を使用する顧客の多くは原料不足や機械設備の故障などで活動を度々停止しており、在庫は増える一方だった。倉庫に石炭が入りきらなくなれば生産をストップすべきなのだが、年末まであと2カ月というのにこれまでの生産量は年間計画の半分に満たなかった。指示を達成できなければどんな処分を受けるのか、会社の幹部達は指を加えて静観しているわけにも行かず、現場で作業員たちと寝食を共にし、夜を徹して働いた。

仕事は普段の2倍忙しかった。なぜなら採掘した石炭を捨てに行かなければならなかったからだ。池や川、洞穴、捨てられる場所があればどこにでも捨てた。こんな状況にある老齢の幹部はこう嘆いた。「俺たちはフランス統治の時代から炭鉱と共に暮らしてきた。奴隷のような扱いも受けたが、こんな馬鹿げたことは初めてだ」。

 Thanh Cong紡織会社では当時、年間300万m2の布生産を指示されていた。機械が壊れても、支給される運営費が必要額の半分しかなくても、逆に余力がある時でもそれは変わらなかった。国は原材料、運営費を各企業に支給し、企業は生産品を国に収めるというのがバオカップ制度の原則だったが、物不足や共有財産という意識から、国の支給したものと企業の生産がイコールで結ばれることはなく、また企業からは創造力や活力が失われていった。
 
1978年に生産していたCalicot布の原価は1m2あたり1.5ドンだったが、製品は全て1.2ドンで国に販売しなければならなかった。しかしこれは闇市では10倍以上になったのである。工員を励ましながら必死で働いても、故障した機械の修繕費の支給すら無く、計画の原料支給さえも滞る有様だった。生産もわずかだったが、それでも国は原価より安価に買い取るばかりで、人々はこんな国のやり方を“泥棒が掠め取る”と言った。

 厳しい生活に労働者の意欲、責任感は日々薄れていき、ほとんどの工場では様々な“病気”が生まれた。最も多い病は盗難で、1982年に社長に就任したNguyen Xuan Haは、工場で横行する窃盗事件の根絶を図ることにした。3カ月かけて5,000人の労働者から15人の犯人を洗い出したが、その中には共産党員5人、経理責任者も含まれ、外部と協力し犯行が露見しないよう、組織的に行われていた。しかし詳しく調べると、彼らは普段は非常に真面目な労働者で、生活苦から犯行に及んでいたことがわかった。


■急勾配を上がれぬ自動車

解放前、サイゴンと中部方面を結ぶ旅客運輸業を営んでいたTran Van Thanhの生活は豊かで、週末にはショッピングをすることが習慣だったが、解放後はそれも一転した。 

彼が運輸業を始めたのは1973年、350万ドン(当時の価値で金100テール以上)で大型バスを手に入れた。当時自動車は非常に大きな財産で、容易く手に入れられるものではなかったが、運輸業をはじめ全体的に景気は良く、Mien Tayバスターミナルでは数十台の車輌を持つ経営者が事業拡大を図っていた。Thanhもさらに自動車を手に入れ、その流れに乗ろうとしていた。

 しかし旅客運輸業は、国が設立した公私合営会社によって発展が急速に落ち込んだ。経営者らが所有する車輌は全てその会社が買上げたのだが、価格は実際の1%にすぎなかった。それにもかかわらず会社は代金を分割で長々と支払い、全ての支払いを待たず亡くなった人もいる。また全額支払われても、1台のシクロすら買えなかった。

 かつての経営者たちは、運転できるものは運転手として雇われたが、できなかった人はただ自動車を無くしたようなものだった。経営者には運転を知らないものも多かったが、何とか職を得ようと頭を下げ、必死で頼み込み運転助手として雇ってもらった。経営者達は、隣でハンドルを握るかつて自分が雇っていた人間の顔色を窺いながら必至で働いた。Thanhの所有していた自動車も老朽化が進み、安全なものではなかったが、ガソリンやオイル、修理費を捻出するために規定重量を遥かに超えて走った。密売品の輸送にも手を出したが、それでも毎月の稼ぎは家族の1週間の支出にも満たなかった。

 南部解放後数年でガソリン不足は深刻化し、当時最も現代的で、非常に優れた機械の代名詞でもあったガソリン車は時代の逆行を余儀なくされた。軽やかな音で時速70~100kmの走行も可能だった自動車が、けたたましい音で時速20~35kmでしか走れない石炭車に変身したのである。火を噴き、炭を撒き散らしながら走るその車が森林近くを通れば火災が発生する事もあった。運転手、利用客は自動車に乗れば顔を真っ黒にし、急勾配の上り坂では、皆自動車を降りて一緒に押した。

 タイヤ、部品の支給も実情とは程遠く、道半ばで自動車を乗り捨て、そのまま職を離れた運転手も多かった。修繕費を捻出するためには密売品の運搬や規定以上に客を乗せるしかなく、運転手には自身の家を売って修繕費を捻出する者も少なくなかった。しかし彼らは、今に至るまで家を買い戻せないでいる。

(第2話に続く)

(Tuoi Tre)

(2006/03/08 06:54更新)

※上記の情報は【ベトナム最新情報】より引用しています。

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